「どう?これ私に似合う?」
「全然」
「だから私は小説家になったの」
ーー『響』
もし一言だけ感想を述べるとすれば「なぜ五巻で止めなかったの?」
小説好きの主人公が書いた新人賞応募作を巡るところから物語は始まる。恐らくは作者も小説を書いた経験があるのだろう。絵の方は死んだ魚のような顔が並ぶ一方で、活き活きとした言葉がそこかしこに見られる。そもそも巧みな文章で彩られる小説の世界を、絵と短い文字列の組み合わせの漫画で構築すること自体が矛盾に近いものがあるので、作中で描かれる小説の中身にほとんど触れられないのは致し方ないところなのだろうと思う。とはいえ、それでも小説の中身が現実的に思えるのは、作中の登場人物の使う活き活きとした言葉の力による部分が大きいのではないだろうか。
短いものを挙げるとすれば、例えば冒頭で引用した会話はどうだろうか?単に文字列の語彙だけを順に拾っていけば会話が噛み合っていないのであるが、不思議なことに読者は著者の意図を汲み取れるのである。身に着けたいファッションと似合うファッションは同じではないし、そういう理想と現実の違いに嫌気を感じて空想の世界に逃避してしまいたくなる――そういう想いは誰しも心当たりがあるのだと思う。
文字による描写に関して言えば、作中で個人的に特に好きなのはヒロイン=響の才能に触れて道半ばで諦めた売れない作家のエピソードである。
ところが、五巻を過ぎる頃から何やらよく解らなくなってしまうのである。「それ、描く必要あったの?」と。
例えばヒロインの受け取る印税の使い道について父親が不可解な要求するエピソードは何だったのだろうか?あるいはヒロインがライトノベルに挑戦するエピソードは?私には太宰や芥川のような文学小説が好きで作家を志した文学少女が父親の横槍で出版社と意味不明な契約を結んだり、ラノベを書いて大ヒットするなど想像もできないが、そもそも読者にとっては興味の範疇外ではないだろうか。
そもそもが漫画で「〇〇が素晴らしい小説を書いた」だの「〇〇が賞を受賞した」だのと言っているだけなのだから、それは純文学だろうがラノベだろうが書ける(書いたことにできる)だろうし、芥川賞だろうがラノベの新人賞だろうが受賞できる(受賞したことにできる)だろうが、そういう無節操な描写は物語を胡散臭いものにしているだけだと思う。
五巻までのエピソードは流れにも辻褄があったし、共感できない場面でも理解はできた。ところがそれ以降は、ヒロインが小説を書いて・応募して・最優秀賞を受賞して・大人が騒いで・その大人の中に邪な野望を抱く者がいて・ヒロインがその大人を殴って…というドラゴンボール並のワンパターンな繰り返しで嫌気がさしてしまう。それも、五巻(正確には六巻冒頭)までの計40話のあと既に40話以上も続いているのである。喩えるならプロ野球で140試合にわたる熱戦を制して優勝チームが決まった後で消化試合がさらに140試合続くようなものである。思うに、単行本五巻までで完結しておくのが良かったのではと思う。